紀ノ川紀行U
 

集落町並み探訪も金がかかる。行き当たりばったりでやっていては小遣いはすぐ底をつくし、家族からのクレームも増して行けなくなってしまう。だからのんびりと旅をするなどということは無理で、「いかに金をかけないで行けて、効率的にアクセスし、最大限に歩けるか」という旅になってしまう。ゴルフ好きのサラリーマンが、いかに家族をごまかしてたくさんゴルフにいけるかを考えているのと全く同じである。私の場合、東京を拠点としているので幸いにも全国各地への交通手段については至って便利で選択肢は多種多様だ。現地へのアクセス方法としては「マイカー」「新幹線」「在来線夜行列車」「飛行機」「フェリー」「ハイウエイバス」などがあげられる。一方、現地での足は大都市部や駐車場に苦労する京都みたいな町を除けば圧倒的に車が便利で、山村漁村となると必須である。マイカーで行かない場合には現地でレンタカーを調達することになる。その場合は、レンタカーを前提とした各アクセス交通手段の比較検討を行い、金と時間で総合評価して交通手段を決定することになる。
そんなわけで今までいろんな方法を選択してきたが、「ハイウエイバス」というやつだけはやったことが無かった。今回予定している和歌山県の場合、ハイウエイバスが金と時間でベストという回答が出た。体力的には大変そうであるが調べてみると3列シートだし、何より運賃が安く早朝和歌山に着けるのがいい。みどりの窓口でチケットを購入し、土曜日の夜、新宿駅のバスターミナルから南海ハイウエイバスに乗った。どんなお客さんが乗っているのだろうと思って見てみるとビジネスマンより女性が多い。東京に買い物に来た若い女性が多くお婆さんもいる。彼女たちは慣れたもので、乗り込むやいなや携帯用の風船枕をふくらまし、ホカロンを靴下の中に入れて最適の寝る体勢をつくり、発車してまもなく寝息をたてている。こっちは最前列の真ん中で「寝られなくても前方の景色が見られていいか」と思っていたら、発車してすぐに前面にカーテンが閉められてしまった。案の定寝苦しく午前3時くらいまで眠れなかった。朝になり目の前のカーテンが開けられるとバスは阪和自動車道を走っていて、ちょうど大阪府と和歌山県との県境の山脈を越えていた。前面に紀ノ川のつくった平野をパノラミックに見下ろしたときには、「二度と乗ることは無いな」から「バスも悪くないかな」に変わっていた。8時前に和歌山市駅前に到着。バスを降りた人たちは殆ど地元の人のようで、家に帰ってゆっくり休むのであろう。私はこれから紀ノ川に沿って8つの集落を歩かなければならない。
雑賀崎(和歌山県和歌山市)
和歌山市市街をずっと南下すると和歌浦湾である。その湾の北を画する岬に雑賀崎はある。地形は海食崖で、2つのV字谷に集落が展開している。谷筋にはメインストリートが、下端の港から集落の上端まで通じており、そこから枝道が地形に合わせて入り込んでいる。メインストリートといってもそこに店や寺が張り付いてなければただの路地としか思えないほど幅は狭い。一方、枝路は家と家の隙間のような場所が連なっており、「この先抜けられるのかなぁ」と思って入っていくけど殆どが抜けられる。これが自然発生的に成長した「家以外はパブリック」という漁村特有の集落空間であり面白いところだ。集落探訪家魂に火がついた。

田野(和歌山県和歌山市)
魂に火がついたら雑賀崎の東隣にある田野という海食崖地形の集落も歩きたくなった。奥和歌大橋と浪鼻崎トンネルを走って田野集落へ。田野は雑賀崎ほど谷が狭くなくU字型に広がっている。港際の通りは埋め立てたところなので、かつての海岸沿いの道は一本入っている。雑賀崎では谷筋のメインストリートに面して店舗や寺が張り付いていたのに対し、田野ではこの海岸に沿った通りに店舗や寺が張り付いていた。
加太(和歌山県和歌山市)
さらに次の漁村を目指す。和歌山市街を縦断し紀ノ川大橋を渡る。大阪府と和歌山県との県境である葛城山の山脈は紀伊水道と大阪湾を分ける岬となって海に落ちており、淡路島へ向って突き出している。その先端にあるのが加太で、古くは紀州から淡路島由良を経て四国・山陽道への重要な海津であり、近世江戸廻船の寄港地だった。
集落は海に面して広がっており、海岸線に平行した丘上の一本の尾根筋を中心に形成されていた。和歌山方面からの街道はこの通りの南端付近で交流し港へ向っている。この合流地点や街道沿い、川の河口付近に町並みの核となる部分が認められた。尾根筋の通りを歩いてもシークエンシャルな町並みを味わうことが出来て楽しかった。

嘉家作丁(和歌山県和歌山市)
戦災地図を見てみると、和歌山旧市街は殆どが空襲による戦災を受けている。旧市街で焼けなかったのはJR紀勢本線の紀和駅と紀ノ川の間のエリアのみのようである。ここ嘉家作丁は近世城下町の大手門外にあたり、江戸時代初期に城下の外郭を防衛するため下級武士を住まわせた町。町並みは紀ノ川旧堤防上の南側だけに並んでいる。各々の家は平入りで間口が大きい。軒を揃えて軒下を東北地方の雁木やこみせのようにしているのが特徴。かつては軒を連ねる町並みが見られたようであるが今やわずかに残るのみとなっていた。ちなみに和歌山では、町を「○○町」ではなく「○○丁」と表記する。

山口(和歌山県和歌山市)
さてこれから紀ノ川を遡る。前回の紀ノ川紀行Tでは橋本から高野口付近までを歩いているが今回は麻生津まで遡る。高野山そのものはまだ行ってないが、これで五條より河口までの主要な町並みを歩いたことになる。
和歌山市山口は和泉国から雄山峠を越え紀伊国に入った高野詣参道の旧宿場町。厨子2階の入母屋造りの町家が並んでいる。主屋は平入り付属屋は妻入で立派な家が多い。高野山へ向う街道沿いの町は何処を歩いてもグレードが高い。当時、相当潤っていたのであろう。多くの人々が行き交っていたかつての風景を見てみたいものである。
根来(和歌山県岩出町)
根来と書いて「ねごろ」と読む。根来寺は中世末に火縄銃と僧兵によって武装集団化した寺として有名だそうだが、日本史が苦手な私にとって根来寺には興味が無く見もしなかった。だが、根来寺へ向う門前町には興味がある。緩やかにうねる町並みは入母屋造り厨子二階建の家々が並んであり、それぞれしっかりとした造り。特に町並みの中の観音橋付近はの家は屋敷が大きく川沿いに長い土塀をまわしていてなかなかのものであった。

粉河(和歌山県粉河町)
粉河は770年創建と伝えられる粉河寺の門前町。粉河寺は町の北にありとても広い境内で、門前から南に下る大通りが町の背骨である。しかし、この通は拡幅工事が進んでおり町並みは残っていない。そこで航空写真をたよりに歩いてみると、古い町並みは門前の大通りの途中あたりから西へ分岐している旧根来街道や東側の裏通り、粉河寺周辺に残っていた。ここでもやはり造酒屋とその周りが良い感じで、酒屋は町並みの核となることを再確認した。旧根来街道にあったレトロな理髪店もマニアにはたまらない一品であろう。

麻生津(和歌山県那賀町)
麻生津と書いて「おうづ」と読む。麻生津は紀ノ川の河港として古くから開けた交通の要衝だった町。大正期まで渡し舟があり、高野山詣の人々が往き交う高野街道の宿場町として栄えたという。町には2箇所の曲がりがあってそのあたりに良い町並みが見られる。形態は切妻平入りの町家が多く、中には庭付き入母屋造りの屋敷もある。高野山へ向う街道は町を抜けると急坂になり、町並みは石垣の美しい集落と変わった。
街道を高野山とは反対方向に歩いて県道を渡りしばらく行くと紀ノ川の土手にぶつかった。「ここに船着場があって川を渡っていたんだな」とは思うものの風情は残っていなかった。
土手にたたずみ日が沈むまで紀ノ川をしばらく眺めていた。とても綺麗な夕焼けだった。

和歌山市に戻り、市内で和歌山ラーメンを食べてこの旅は終わった。次回の紀ノ川紀行は奈良県に入って五條から上流部を攻めようと思う。